今から40年以上前。ヨーロッパへ遊学した際、パリにひと月ほど滞在したことがあります。そのとき驚いたのは、20世紀初頭から続く『カフェ』のスタイルでした。当時のパリでは、カフェの主人が客を選び、選ばれた客だけがその店に入れました。客のなかには、政治家もいれば画家や文化人もいます。セレブリティから貧乏なアーティストまで、さまざまな職業の人間が集い、尽きることのないおしゃべりに時間を費やしていました。
当時の文化人というのは、政治家も動かし、芸術家のパトロンにもなり、文化や芸術を育てていました。そして、そういう考え方を持つ人たちが集まるのが『カフェ』でした。日本にはないカフェを見て、密かに思いました。「僕はこういう店をつくりたい」。
帰国後、旧友や知人との再会を果たし、『クウォーターズクラブ』(クウォーター・グッド・オフィスの前身)をオープンしたのが40歳のころ。昭和56年のことです。16人からのスタートでした。
コトのはじまりは、クウォーターズクラブに置かれた『罰金ボックス』でした。それは、酔って暴言を吐いたメンバーが、罰として箱にお金を入れていくというものでした。酒好きのメンバーだけに、罰金はあっという間に溜まり、そのお金は、交通遺児のための寄付に使われました。それが2年くらい続いたでしょうか。そのうち、ただ寄付するだけでは面白くなくなり、皆でなにかをやって、収益を上げてから寄付しよう、と考えました。
僕がやりたかったのは、クラシックのチャリティー・コンサートです。でもメンバーはクラシックに興味がないから、僕が扇動したわけです。目的は、なんらかの事業を一緒にやることで、メンバーの絆を強くすることでした。
チャリティ・コンサートの第一回が開催されたのは、クウォーターズクラブを立ち上げてから3年目のこと。初回は250人のお客様が入りました。それから2回、3回と回を重ねるに連れ、収益も上がり、毎年の合計で数百万円の寄付ができるようになりました。でも、やがてそれも面白くなくなってきました。そして、9回目からスタンスを変えることにしたのです。
当時、東京都が離島に音楽家たちを送り、コンサートを開いていたのですが、それが予算の都合でカットされてしまいました。そこで「よし、俺が連れていってやろう」と思いました。最初に声をかけたのが、いま、読売交響楽団のコンサートマスターをしているヴァイオリニストの小森谷巧氏、ピアニストの泉晶子さん、ソプラノの本島阿佐子さん。ギャランティも出るか分からなかったけれど、出演を快諾してくれました。式根島と新島でのコンサートの様子は、TBSの『ニュースの森』でも放映されるほど反響を呼びました。それ以来、神津島や佐渡島、それに、地震と津波で打撃を受けた奥知島へも行きました。
毎年必ずコンサートをやってこれたのは、一重に演奏家たちの協力のおかげです。普通の3分の1ほどの報酬しか出せないのに、「ギャラの話はいらない。それよりも、自分達のコンサートをしたい」と言ってくれました。それから、演奏家たちとの関係が深まった大きな理由は、アーティストサロンを作ったことも大きかったと思います。演奏家に選んでもらったピアノを置き、室内楽やコンサートのリハーサルで、演奏家たちが常に出入りする空間です。
そしてなによりも嬉しいのは、チャリティ・コンサートにエントリーしてくれたかつての音大生たちが、大物になりつつあるということです。例えば、ロン=ティボー国際コンクールに出場した小林美恵さんは、「フランスへ発つ前にクウォーターズクラブの皆さんに聞いてほしい」と言ってきました。それで我々が文化会館で演奏会を開いたのです。そうしたらなんと、日本人で初めての優勝を飾ってしまいました。その他にも、ショパンコンクールで入賞した横山君、現在の読響のソロヴィオリスト鈴木君、かつては教え子で、いまや加藤知子さんのセカンドを務めるほどになった井上さんなど、数え上げればキリがなありません。とにかく豪華なメンツが、揃ってクウォーターズクラブに参加してくれました。
20年以上の歴史のなかで、いつのまにか我々は、お金ではないパトロニストになっていたのです。
クウォーターズクラブのメンバーは70人以上にまで増えました。
大物の演奏家たちが育っていく一方で、20年前のメンバーの2世たちも、着実に育っています。僕たちの歴史を、彼らに繋げられたらいい──。そんな思いから、2011年にNPOを設立しました。
クウォーターズクラブから特定非営利活動法人クウォーター・グッド・オフィスへ。新たなステージが始まりました。
また、同じ志を持ったメンバーが海外にも広がり、ロンドン支部とウィーン支部が開設されました。演奏家はグローバルに活動します。この海外への広がりはますます大きくなると思っています。